いい小説とは? 第五回 ロシア・フォルマリズム(2) | いい小説とは?|盗作日記

いい小説とは? 第五回 ロシア・フォルマリズム(2)

第五回 ロシア・フォルマリズム(2)  

 では、ロシア・フォルマリズムの弱点を見ていきましょう。

 どんな考えもそうなんですが、やはりロシア・フォルマリズムも極端になっていきます。「文学を作っているのは言葉であり、言葉による技法なのだから、作家が何を言おうとしているかなどは関係ない」というところまで行ってしまいます。

 ここまでいくと、やはり少し問題がありますよね。政府を批判した小説などは、技法よりも内容を重視すべきでしょう(そういった小説は、どうも好きになれませんが)。例えば、小林多喜二『蟹工船』は、共産主義を濃く、こぉーく反映させた小説です。「内容は関係ない」なんて言ったら、小林さんがこの小説を書いた意味がなくなってしまいます。

 また、もう一つ疑問がわいてきませんか? 前回、私はこう書きました。

「こういったテクニックのない作品は、とんとんと話は進みますが、どこか物足りないと感じるものです(最近、そういう小説増えていませんか? まあ、ライトノベルならばいいでしょうが、仮にも「純文学における最大の名誉」というならば、芥川賞はもっと考えて受賞者を選んで欲しいものです)」

 疑問とは、「では、日常言語だけで小説を書いてはいけないのか?」ということです。これは、決して先ほどの言葉と矛盾する疑問ではありません。では、この疑問を晴らすために、こんな言葉を見てみましょう。

「おくれてどうも失敬。それでは早速、来月の実施事業の相談にかかります」  

「何だ、自動化された言葉だなあ」と思いませんか? 確かに日常的な言葉だし、今日も日本中で使われている言葉でしょう。しかし、これは文学的な文章ではないとはいえないのです。これはあの文豪、三島由紀夫『潮騒』に出てくる言葉なのです。

「三島の文章ならば、絶対に文学的なのか?」

 そうではありません。そういった権威主義に私は染まってはいません。つまり、こういうことです。

 「異化」された言葉ばかりを使っていては、読者は疲れ果ててしまうし、「異化」された言葉に慣れてしまい、逆に「異化効果」は薄れてしまう。だから、日常言語の間に「異化」された言葉を挟み込むこんだ方が、「異化」の効果は高まるのです。つまり、「日常言語」と「異化された言葉」のセットこそが「文学的な文章」ということです。「異化効果がある」とこちらに示してくれるのは、実は「文脈(コンテクスト)」なのです。だからこそ、先ほどの三島の文章も、文学的な文章であるといえるのです。

 コンテクストをとらえてこそ、さっきの三島の言葉も、「ああ、田舎で標準語を操れる人間はこういうふうに見えるのか」ということを読者に教えてくれる技法の一部になるのです。

 だから、「異化」こそ全てであると主張したロシア・フォルマリズムとは、やはり詩のための方法論なんですね。詩ならば短いので、全てを「異化」させることが必須になりますから。

 さて、ややこしい説明を、ややこしい言葉(異化された言葉)で説明しようとすれば、理解不能という結果が待っています。ややこしい内容は、やはり日常言語を使った方がいいのです。しかし、ロシア・フォルマリズムをかじった人は、そういった場所で日常言語を使った場合でも非難してしまっています。例えば、「読者の誤読の自由を奪ってしまっている」などと。確かにこうはいえます。「全ては誤読」であると。

 これは確かです。全ての解釈は誤っている、つまり、全てが正解だというわけです。これは、読者に様々な解釈を許容してくれる、非常に貴重な言葉です。しかし、先ほどのように、ややこしい内容を日常的な言葉で説明することを禁じてしまっては、誤読だらけになってしまいます。「誤読」というのは、ちゃんと内容を理解し、解釈した上で行わなければなりません。「深読み」というのは、センター試験以外で行えば非常に尊いものです(センター試験は、その「解釈」を試す場所なんですね)。けれど、解釈できていないのに誤読はできません。それは「勘違い」になってしまいます。

 勿論、解釈を拒否して、勘違いしようと思えばいくらでもできます。例えばこんな文章。

「非常の際は、この座席の下の赤いコックを九十度、右へ回し、手でドアを開けてください」

 よく電車に書いてありますよね。では、勘違いをしていきましょう。

 「非常の際」とはいつなのか? きっと小便がしたい時だ。ならば、ドアを開けて放尿しなければならない。

 いや、「非常の際」とは電車事故の時に決まっている。だから、たとえ電車が暴走していても飛び降りなければならない。

 「九十度、右へまわせ」と書いてある。九十回も回さなきゃならんのか。

 そう勘違いしないように、「90゜」と書いたところで、今度は九百回回す恐れがある。

 このように、日常言語でも、「異化効果がある」といえなくもないのです。しかし、そんなことをしても、ギャグにしかなりません。


 また、「異化」させようとして、「ざらついた質感」とか、「無機質な色彩」とかいった言葉を多用する人がいます。これらは過去において「異化効果」を持っていましたが、もう使い古されて、「自動化」されてしまった言葉です。こういう言葉を多用したところで、読者は不安になるどころか、「またか」と思うだけです。やはり、新たに自分で作り出してこそ、「異化」は生まれるのです。それを生み出すヒントを、尊敬する島田雅彦が明かしてくれています。これを見て最後にしましょう。

「戦略的に次のことに注意しています。

 一、構想の段階で仮想した結末を裏切ること。これは結果的に読者を煙に巻くことであり、同時に作者である自分をも欺くことです」

 これは、ストーリーを作るレベルにおいての「異化」といえます。

「二、日本語としては不自然な表現を意識的に用いて、作者が予想もできなかった方向に作品を追いやること」(以上、『夢遊王国のための音楽』あとがきより)

 これを実現するために、島田雅彦は突飛な比喩を用いることを選びました。また、他にも日本語の文法を破壊しにいきました。

「黄色い声援が飛んだ」

 この言葉は、もう自動化してしまっていて、面白くない。そこで、英語を直訳したような文章にするわけです。

「その声援は黄色だった」

 言葉自体は自動化していますが、順序を入れ替えることで「異化」されたわけですね。

 今回は、小説を書くにあたってのかなりのヒントになった筈です。では、次回は「現象学」を取り上げます。これは少し難しいのですが、がんばって説明したいと思います。

 では、感想、疑問など、何でもお待ちしています。