第六回 現象学(1) | いい小説とは?|盗作日記

第六回 現象学(1)

第六回 現象学(1)

 今回は現象学を取り上げます。ただ、まず現象学とはどういったものなのかを知らなければ、それを文芸批評に生かすことはできません。そのため、今回はちょっと哲学しちゃいましょう。主役はフッサール。ドイツ人です。

 フッサールは哲学者です。ならば、「現象学」などといわずに「哲学」といえばいいのですが、彼は他の哲学と、自分の哲学とを区別しようとしました。今までのやり方では、哲学は厳密な、根本的な学問にはならないと考えたからです。

 しかし、哲学がちゃんとした学問ではないなんて、ちょっと不思議な気がしませんか? しかし、よく考えてみて下さい。「哲学」という言葉は、最近、色んなところで使われていませんか? 例えば、「社長であるための哲学」とか、「ファッションの哲学」とか。それらはもう、「人生観」とか「考え方」程度の意味でしか使われてはいません。フッサールは、学問として扱われている「哲学」も、これと同じような状況にあるのではないかと考えました。

 「哲学は、人を感心させたり驚かせるような知識の量や、考え方ではないのではないか? そんなことよりも、物事をありのままに見る能力とか、考え方の筋道をきちんとたどる能力を学ばなければいけないのではないか?」

 そうフッサールは考えました。

 するとどうでしょう、何かに似てきませんか?

 そう、自然学です。「1+1=2」や、「地球は自転している」とかいった、実証できることしか論理の対象にはしないという考え方です。しかし、哲学は目には見えません。そこでフッサールは、こんなことを言いました。

「哲学とは、自然科学よりももっと根源的な、そして普遍的な意識の問題を考えるべきである」

 自然科学よりも根源的な、普遍的な意識とは何でしょう? それを考えるにはどうしたらよいのでしょう? 

 私たちは、「自分たちが生きている世界は、ちゃんとここに存在している」とか、「本で読んだり、誰かに聞いたりした、この世界の情報は、だいたい正しい」と思っています。例えば、「地球は丸い」だとか、「昔は、恐竜がいた」とか。そういう考えは、もう常識のように思っています。フッサールはこういった考えを「自然的な態度」と呼びました。しかし、フッサールはこの「自然的な態度」が問題だと言いました。

「全部捨てちまえ」

 そこまでは言いませんけれど、「いったん横に置いておけ」と言いました。何故、一旦横に置いておかなければならないのか? それを説明していきましょう。

①恋人のことを想像(意識)する時、確かにその恋人は実在します。しかし、死んだ人を意識したところで、その人はもう実在しません。また、「目の代わりにペットボトルのフタがついている男」というものを想像(意識)しても、そんな男は実在しません。意識したものが全て存在するとは限らないのです。

②ある思春期の男の子が、授業中に裸の女性のことを想像(意識)しています。そして、下半身が固くなってきました。

「やばいぞ。おれが今、裸の女を意識したからだ」

 そう思ったといういうことは、「意識したということを意識した」ということになります。また、裸の女を想像したことを恥ずかしいと思ったことを自覚したとしたら、「意識したことを意識したということを意識した」ということになります。

 ①のように、そこにあるものを意識することを、フッサールの師匠、プレンターノの言葉では「外部知覚」といいます。②のように意識しているということを意識することを、同じく、プレンターノの言葉で「内部知覚」といいます。

 ①のように実在しないものを意識できるのは、心の中にそれが実在するからです。死者も、心の中には記憶として残っていますから。

 また、②のように意識するということを意識することができるのも、心の中に「意識したもの」があるからであり、それを意識すれば、「意識したということを意識した」ことになります。

 つまり、①も②も、心の中のものを存在するものとして扱わなければできないことなのです。心理学ですね。

 しかし、これにフッサールは反対しました。心の中は、個人個人で違います。そんなものを基礎にした考え方は、どんどん間違った方向に進んでしまうというわけです。最初を思い出して欲しいのですが、フッサールはこんなことを言っていました。

「哲学とは、自然科学よりももっと根源的な、そして普遍的な意識の問題を考えるべきである」

 では、フッサールのいう「意識」とは何なのか? 

 それは「純粋意識」というものです。つまり、主観などというものはないというのです。

 目の前の人が、長身だったとします。それを見て「ああ、背が高い」と思う。それさえも、それはそう信じているだけだというのです。それは、「原信憑」(人間が誰でも持っている、目に見えるものを信じようとする根本的な力)によるものだ、とフッサールは言いました。だからこそフッサールは、「自然的な態度」は一旦横に置いておけ、と言ったのです。

 全てのことは、一旦カッコでくくって、横においておけ。これが、現象学の第一歩で「判断中止」というものです。

 しかし、「判断中止」をしてしまうと、「これは何々だ」と断言できるものはなくなってしまいませんか? 困りましたね。しかし、フッサールは強いのです。

「その通りだ。確かなことが分かるものなんて何もないんだ」と、まるで失恋した思春期の若者のような無茶を言います。ただ、こうも言っています。

「たとえそうであっても、意識に直接うったえてくるものがあるなら、それがどんなものか分かる筈だ」

 うーん。どうも納得がいきません。「判断中止」してしまえば、何も分かる筈はないのですが…。しかも、「純粋意識」といわれても、意識なんてものは、ごちゃごちゃな筈です。さっきまで考えてていたことも、次の瞬間にはもう形を変えてしまっている筈です。

 しかし、フッサールはやはり強いのです。

「そういう考え方こそが、経験主義に毒された考え方だ!」

 そう言い放って、こうも言うのです。

「いくらとらえどころがなくても、我々に赤い色は見えているし、音も聞こえている。ということは、直感的に色と音との本質的な違いをとらえているのだ!」

 その、直感的にとらえたものが、色や音のイデアやエイドス(両者は、プラトン哲学においては同じものです。性質や種類と考えて下さい)であるというのです。

 要するにこういうことです。

 歴史や場所といった、物事と一緒に想像してしまうようなものは全てとっぱらえ。そうやって、残ったものが純粋意識だ。

 全ての現実は、現実そのものとしてではなく、自分の意識の中にある純粋な現象として扱え(現象学的還元)。

 さて、その後にはどうするか? 

 今度は、一つ一つの物事を、想像力の中で色々に変化させて、最後にその中から、絶対不変のものを見つけるという作業を行います。そうして出てきたものが、さっき言った「イデア」や「エイドス」だというわけです。まあ、「判断中止」しているのに、想像力を使うとは何事だとも思うのですが…。

 絶対不変のものを見つける作業の過程は、文芸批評には関係ないので省きます。フッサールに興味をもたれた方は、中央公論社『世界の名著』第六十二巻を読んで下さい。千三百円です。
 
 では、今回はここまで。次回は、現象学の第二回。文芸批評が、この現象学から、どんな影響を受けたのかを見ていきます。