いい小説とは?|盗作日記 -2ページ目

露骨な夢

 今日も朝方に、それも、特ダネが終わってから眠るという春休みフレーバーな日々。それでも夕方になればバイトがある。そのため、三時半に目覚ましをかけるのだが、今日は全く気付かなかった。しかし、夢が私を起こしてくれた。夢はしばしば起きなければならないことを示してはくれるが、今日の夢は露骨だった。

 私は小学生の頃の友人と通学路を歩いている。すると、向こうに大砲のようなものが見える。それが一体何なのか分からないまま歩いていると、いきなり轟音を立てて爆発した。夢も私を起こそうと必死である。しかし私はまだ起きない。

 次に現れたのは、寿司である。私のバイト先であるレストランは、金曜にはバイト後に刺身を食べさせてくれる。そのことを連想させるために、夢は寿司を提示した。しかし、私は「これはうっまいやつやでぇー」と何十回も連呼するばかりである。一度言っただけではそれほど可笑しさもなかったが、繰り返し言う内に、じわじわと笑いがこみ上げてきて、ついに私は覚醒した。起きると、もうバイトが始まる時間であった。しかし、二年も勤めていれば十分やそこらの遅刻ならば余裕である。

 さて、大学生にとってはもう春休みということで、連載中の『一つ上の彼女』、土曜恒例の『いい小説とは?』の他に、短編も書きました。これは、あるお寺の和尚さんに聞いた話を膨らませ、人名も何もかもをフィクションにして仕上げたものです。どうでしょうか? 和尚さんのおかげで、私にとって初めての時代小説になりました。感想を聞かせてくれると嬉しいです。

五年越しの出会い

 私は家庭教師のアルバイトをしている。といっても、なんのことはない。二時間をつぶすことがもっぱらの仕事である。それだけで、一時間千五百円ももらえるのだ。

 バイトを終え、ブックオフへ。まだ読み終わっていない本が山積しているのに、やはり本は欲しい。誰かが言っていたが、本好きには三種類あるそうである。一つは、読書が好きな人。二つ目は、本自体が好きな人。三つ目は、両方。私はきっと、二つ目だ。何故って、買ってきた本を眺める時ほど優雅な時間はないのだから。

 その証拠がもう一つある。もう持っている本でも、ハードカバーが売っていれば買ってしまうのだ。困ったものである。

 結局、買った本で未読のものは筒井康隆『エロチック街道』だけであった。しかし、この出会いは感動的であった。

 中学生の頃、私は筒井作品を読みあさっていた。どれも短編である。そして、長編である『邪眼鳥』が理解できなかったことの悔しさから、私は訓練のために島田雅彦を読み始めたのだ(『邪眼鳥』は、最近になってようやく完全に理解できた)。

 さて、その『邪眼鳥』に出会う前である。図書館の棚にある筒井作品は、どれも読み終えてしまって、書庫に私は目を向けたのだが、書庫の本を出してもらうには、レファレンスの人に申し出なければならないのだった。

 そのレファレンスの人は若く美しい女性であり、私は毎週図書館に通うことにより、挨拶程度は交せるようになっていた。その微笑ましい関係は、『エロチック街道』を申し出ることで、容易に崩れてしまうのではないかと私は危惧した。そのため、私は『エロチック街道』を読まずに、大学生になってしまったのだ。その『エロチック街道』がついに我が物になったのだ。

 私は勢いよく自転車をこぎ出した。歌も自然と口から出てくる。SISQOの『INCOMPLETE』である。しかし、歌詞が英語であるため、うまく歌えずに、フガフガと老人のように歌う私であった。

懐かしの歌声

 MAROON 5の『Sunday Morning』を聴きながら、今日もブログを書いている。初めてこの曲が耳に流れ込んできたのは、ノイズ交じりのラジオからだった。ノイズは邪魔でもあるけれど、味をつけてくれることもある。

 ノイズといえば、筒井康隆『ジャズ小説』に収録されている、『懐かしの歌声』という素敵な短編がある。

 主人公の女性は、幼い頃から父のレコードを聴いて育った。父は雨の日になると、決まってSP版の、ある曲をかけた。エラ・フィッツジェラルド(Ella・Fitzgerald)の『How High The Moon』だ。その曲は雨の日と結びついて、記憶に沈殿する。

 彼女は後にジャズ歌手となり、エラにも似た歌声で聴衆を魅了する。彼女の声を聴いた者は、まず「エラのようだ」と思い、次に「エラよりもいい」と思う。それは、彼女の声が持つ不思議な懐かしさゆえだった。

 彼女は幼い頃に聴いた『How High The Moon』のLPを探すものの、それは決して見つからなかった。

 SP版を聴く蓄音機はもうない。そう思っていたが、ある酒場には装置があった。彼女は父のSPから『How High The Moon』を持ち出し、早速かけてもらった。しかしそれはひどいノイズで、まるで雨が降っているかのように聴こえた。彼女が知らず知らずのうちに真似していたエラの歌声には、雨とノイズが混ざっていたのだ。それ故、聴衆はSP版めいた懐かしさを彼女の歌声に感じていたのだった。

 彼女の父は、ノイズを隠すために、雨の日を選んでその曲をかけていたのだ。

 エラ・フィッツジェラルドは、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレーと並んで三大女性歌手と言われた人物である。しかし、あまりに上手すぎて面白みに欠けると言われた人物でもある。その完璧な歌声は、懐かしいノイズを含んで、主人公の女性に魅力的な声として受け継がれた。  

 ブラックミュージックといえば、HIPHOPとR&Bというイメージしかないが、確かにその根本にはジャズがある。CDjという最新機器が登場しても、まだDJはレコードを使っている。アナログにしか出せない味があり、ラジオからしか聴けないノイズがある。そのノイズには、過去が詰まっている。ターンテーブルの針がつけた傷にも、過去がある。

 今でもエラ・フィッツジェラルドの『How High The Moon』は、『The Complete Ella in Berlin MACK THE KNIFE』で聴くことができる。もうノイズのない彼女の声を聴くことはできないが、それがアナログ時代に生まれた者の定めである。

ガールズチェック

 講義が詰まらない時は、本を読む。本に飽きれば、夢に落ちる。

 夢から覚めると風景がぼやけて見え、普段気付かなかった女の子の可愛さに気付くことがある。

 眉毛をカットしただけで、表情が一変した女の子。

 笑顔が美しい少女。

 またある女の子は、真剣にノートをとる眼差しでこちらの心を射抜いてしまう。

 私の属する教育学部国語科は、二十六人中、女の子が二十二人というハーレムワールドである。勿論、可愛くない子もいっぱいいる。イルカそっくりの子もいれば、出来損ないの子もいる。

 けれど、二年間も一緒にいると、仕草の一つ一つに可愛さを見出してしまうのである。やはり、見慣れるということは、大変重要だ。

 内面か外見かというのは、いつの時代においても究極の選択である。
「外見で惚れてからじゃなきゃ、内面なんて知りようがないじゃーん」というギャルのアホ発言も、あながち間違いではない。やはり、外見を内面が超克するのは、見慣れるという過程を経てからだと思うのだ。

 「性格はいい、けど外見がなあ…」という発言は、まだその外見に見慣れていないから生まれる発言なのだ。まずは見慣れろ! そうすれば、悪魔も女神に見えてくる。

 ただ、やっぱり私は雰囲気に恋をする。柔らかな雰囲気を持った女の子は、見慣れるという手続きを必要としない。既に、以前に出会っていたような感覚を与えるからだ。それでいて、恋は燃え上がる。言葉の一つ一つに過剰なまでの意味を読み取り、不安になったりバカのように舞い上がったりする。やはり、恋っていいですね。

 さて、「古代文学研究」のレポートが返ってきた。「竹取物語」に関するレポートである。そこにはこう書かれていた。

「おもしろいので、Good」

 何だ、これは!? こいつはバカなのか!? それとも、人をバカにしているのか!? おお!? どうなんだ、ハゲ!! 声量のないテノール歌手みてーな声しやがって(分かる人は分かるんです)。 

 もう知らね。今度は難解すぎるレポート書いてやろっと。そしたらこう書いとけ。

「難しいので、I don’t know」

 やつなら本当に書きそうで怖い。

いい小説とは? 第四回 ロシア・フォルマリズム(1)

第四回 ロシア・フォルマリズム(1)

 前回は、「新批評(ニュー・クリティシズム)」を見ていきました。今回は、「ロシア・フォルマリズム」を見ていきましょう。

 自分という現存在は、この電脳において七曜前に遡ることとなるが、文学理論を、貴殿達の脳内に存在せしめた。しかし、我が言辞が貴殿達の心に喚起できることとはいかばかりなのか。

 はい、おふざけはこのくらいにしましょう。しかし、これを読んでいる方は、少々驚いたのではないでしょうか? 先ほどの文章は、「私はこのブログで、文学理論を、先週解説しました。けれど、私の言葉は、あなたたちにどれくらい伝わったのかなあ?」と聞いただけです。

 けれど、あなた方は、少し驚いた。また、少し困惑した。これが、ロシア・フォルマリストたちの言う「異化」というものです。この「異化」というものが、ロシア・フォルマリズムの一番の核心となるものです。では、まずこの「異化」を説明しましょう。
  
 「もう疲れたから、歩くのがしんどい」

 普通の言葉ですね。何の変哲もない言葉です。「ああ、疲れたんだなあ」と思うだけです。こういう、見慣れた言葉、聞きなれた言葉のことを「自動化された言葉」といいます。「自動的に」誰もが使う言葉ということです。「日常的な言葉」と言い換えてもいいでしょう。では、こうするとどうでしょうか?

 「わが足は石と化した。それ故、靴音は不協和音を奏でるのだった」
 
 これは、先ほどの「もう疲れたから、歩くのがしんどい」という言葉と同じ意味ですが、先ほどとは雰囲気が違いますね。こういうふうに、日常的な言葉を、文学的なテクニックを使うことで、異常な、見慣れない雰囲気に変えてしまうこと。それを「異化」といいます。

 小説を読む時、大抵の人は光景を思い浮かべながら読みます。そのため、「異化」された言葉を見ると、その想像した光景までが異常なものに変わってしまうのです。さっき出した、「わが足は石と化した。それ故、靴音は不協和音を奏でるのだった」という文章も、疲れたというだけではなく、何処かロボットが歩いているかのような印象を受けるのではないでしょうか? 

 また、二回目には、こうも感じたのではないでしょうか? 

「どうせ疲れたって言いたいんでしょ?」
 
 これは、二度読んだことで「異化」効果が薄れたんですね。だから、意味が分かった。それ故、「異化効果を持っている」小説は、二度以上読まないと分析ができません。「一度で十分だ」という方もいらっしゃると思いますが、それはよほど優れた洞察力を持っている人だったか、その小説が「異化効果」を持っていなかったということです。「異化」を実践することは、ロシア・フォルマリズムの代表的言語学者ロマ―ン・ヤコブソンに言わせると、「日常言語への組織的暴力行為」です。

 では、さらにロシア・フォルマリズムに踏み込んでいきましょう。

 先ほどの、ヤコブソンたちは、1910年代から文学運動を始めました。一番華麗だったのは、1920年代。その後には、スターリンさんが登場して、弾圧されてしまいますからね。

 さて、フォルマリズムという名前からも分かる通り、彼らは形式を重視した、というか、絶対視しました。内容は無視しました。内容にまで触れると、前回登場したスクルーティニー派のように歴史や心理学や社会学にまで足を突っ込まなくてはなりませんから。

 二回目の講義を覚えていますでしょうか? 「象徴」を使って批評をする「美学理論」の人たちや、「印象批評」の人たちです。

「こういった曖昧なやつらはつぶしてやる」

 そういってはばからない、好戦的で、論争好きな人々が集まって、ロシア・フォルマリズムは生まれました。代表者のヤコブソンはこう言っています。

「文学の研究を科学にまで高めるためには、技法こそ唯一の登場人物でなければならない」

 つまりそういうわけで、ロシア・フォルマリストたちは、技法を最も重視しました。そして、その技法の中でも最大級に大事なものが「異化」なのです。普通の言葉を使ってちゃだめだというわけです。「もう疲れた」なんて言ってはいけない。日常言語を歪めたり、引き伸ばしたりして、異様な言葉に変えなくてはならない。それが、ロシア・フォルマリストの最大の主張です。

 前回触れた、「新批評(ニュー・クリティシズム)」は1930年代に最盛期でしたが、ロシア・フォルマリズムは、1920年代です。ちょっと順番を入れ替えました。しかしそれは、意図があってのことなのです。

 スターリンがロシア・フォルマリストを弾圧したため、彼らは亡命していきます。そして、アメリカへ亡命した者は「新批評」に影響を与え、フランスに亡命した者は「構造主義」に影響を与えました。その後、1960年代にロシア・フォルマリズムは再評価されるのです。そのため、ロシア・フォルマリズムは「新批評」の後に取り上げました。

 さて、話を元に戻しましょう。ロシア・フォルマリストは、文学作品とは言語の技法が組み合わさったものだと主張しました。よく批評家がいう「装置」とか「仕掛け」とかは、この「技法」のことです。この「技法」には、「異化」だけではなく、私たちが、「この小説は面白い」とか「現実よりも面白い」と思わせるテクニックも含まれています。では、それはどういうテクニックなのでしょうか?

 クライマックスがきそうでこない。そういうもどかしさを経験したことはありませんか? いらだたしいけど、面白い。そういう感覚です。そのもどかしさがやっと終わったところで、また別の話が始まってしまう。

 まあそれは、現実にはよくあることなんですけどね。恋愛小説を読んでいて、いつもいつもキスばっかりしていることはよくあります。けれど、現実にはそんなことはないでしょう(あるかもしれませんが)。じらされることによって生まれるもどかしさを経験することで、「ああ、現実も本当はこうなんだよな」とか逆に教えられたりする。そういったテクニックを「遅延」とか「妨害」といいます。こういったテクニックのない作品は、とんとんと話は進みますが、どこか物足りないと感じるものです(最近、そういう小説増えていませんか? まあ、ライトノベルならばいいでしょうが、仮にも「純文学における最大の名誉」というならば、芥川賞はもっと考えて受賞者を選んで欲しいものです)。

 この「遅延」、「妨害」を極端に実践したのはローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』という作品です。

 この作品は、またなんともひどい作品でして…、話が始まらないんですよ。全九巻(未完)の作品なんですが、一巻、二巻と読んでいっても主人公のトリストラム・シャンディはまだ生まれません。作者のおしゃべりが延々と続きます。「遅延」もいいところです(ちなみに、ロシア・フォルマリストの一人、シクロフスキーなどは「世界文学史上もっとも典型的な作品」と言っています。これは半分冗談で、「遅延」の重要性を言っただけだと思われます)。
  
 しかし、本気で人生を描写していけば、九巻などでは足りない筈です。こういうふうに、普通の小説がやらないことを実践することで、異常な光景を読者にもたらしてくれます。まあ、これはちょっとやり過ぎですが。

 では、今回はここで一旦お休みして、次回はロシア・フォルマリズムの弱点をついていくことにしましょう。弱点を知れば、この理論をもっと発展させることができる筈です。

いい小説とは? 第三回 新批評(ニュー・クリティシズム)

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。前回は、
「印象批評」を取り上げました。その欠点については、既に知っていただけたと思います。では、新年一回目は、新批評(ニュー・クリティシズム)を取り上げることにしましょう。

第三回 新批評(ニュー・クリティシズム)  

 「印象批評」に反対する形で、ケンブリッジ大学にいたリーヴィスが中心となって1920年代から、スクルーティニー(吟味)派というものが生まれました。そのため、リーヴィス一派とも呼ばれます。この一派には中産階級の人が多く、上流階級の人への反感もあったのでしょう、ケンブリッジ大学を中心に、猛烈な勢いで印象批評への攻撃を始めます。第一回の時にも言いましたが、文学など女子供のするもので、「大学で文学など教えてどうなる」と思われてきました。それは、1920年代の初めまで続きます。しかし、この運動によって、1930年代からは、「文学以外のことに頭を使ってどうなる」というように、コぺル二クス的転回(天動説から地動説へとひっくり返したコペルニクスに例えて、よくこういう言い方をします)を見せます。

 では、このスクルーティニー派とは何なのか?

 要するに、今までの批評が、「文学作品を解剖することは人体を切り刻むことと一緒で、非道な行為だから避けよう」と言っていたのに対し、自分たちが一流と認めた作家たち(チョーサーシェイクスピアワーズワースなどを指す)の作品を綿密に分析した人たちのことです。

 さて、綿密に分析したとは言うけれど、一体どのように分析したのかといえば、自分たちが今まで学んできた、歴史や心理学、あるいは文化人類学といった社会的な問題を持ち込んだわけです。つまり、「こちらの作品には人生とは何かが書かれているが、こちらの作品はそうではない」とか、「こちらの作品には人間関係とはどういうものかが書かれているが、こちらはそうではない」とか、そういう議論をしていったわけですね。でも、ここで疑問が浮かびませんか? この研究をしていたのは何処でしたっけ? そう、ケンブリッジ大学ですね。大学に入ってくる学生は、まだ世の中のことをよく知りません。そんな人々がこんな議論をしていくとどうなるか?

 どんどん過激になっていきます。文学を飛び越え、いつの間にか政治的になってくるんですね。先に出たリーヴィスも、「何か政治的なアプローチが必要ではないのか?」と思うようになります。そこで出てきたのが、経済共産主義です。

 第一回を思い出して頂きたいのですが、共産主義に染まらないように文学を始めた、というのが最初だった筈です。しかし、このスクルーティニー派のほとんどは、上流階級ではありません。それどころか、上流階級への反発心で印象批評の批判を始めた人々です。そのため、文学を研究している筈が、「資本主義をつぶせ」という方向に進んでしまいました。困ったものです。何事においても、夢中になると本当の目的を見失ってしまうというのはよくあることですけれども。

 そして彼らは舞い上がり、「英文学こそが、全ての学問の頂点に立つものだ」というところまでいきます。「政治や法律、歴史や科学、こんなものよりも文学は、はるかに重要な学問だ」というわけです。勿論、小説でなら政治小説も書けるし、歴史小説も書ける。しかし、その逆は成り立たない筈です。歴史がなければ歴史小説など書ける筈がありません。

 しかし、何故スクルーティニー派はここまで舞い上がったのか?  その理由は簡単です。何故文学を読むかという問いに対して、リーヴィスがこれ以上ない説得力のある説明をしたからです。それは、「文学を読めばいい人間になれる」というものでした。

 本当でしょうか? ある程度はうなずけますが、ほとんどウソです。太宰治を読んで自殺した者、不倫小説を読んで家庭を捨てた者。そんな人は腐るほどいます。それどころか、悪影響を与えることができるほどの作品は、名作といえるのではないでしょうか?

 これ以後、スクルーティニー派は、「生(ライフ)」という言葉を掲げるようになります。「批評によって、小説内の<生(ライフ)>を見出すのだ」というわけです。けれど、「生(ライフ)」を見出すという目標を掲げてしまっては、読者の読みを制限することになりませんか? しかも、この「生(ライフ)」という言葉、何とも曖昧ではないでしょうか?

 こうして見ると、印象批評を攻撃する筈だったスクルーティニー派も、ボロが出始めましたね。「生(ライフ)」という曖昧な言葉を掲げたのも、具体的にすると、攻撃されるからです。言ってみれば、「生(ライフ)」を宗教にしたんですね。絶対不可侵の。

 さて、「新批評」はここからが本番です。一般的には、リーヴィスも、前回触れたエンプソンも「新批評」に含まれますが、「新批評」はやはりアメリカが中心です。

 ここで、リチャーズという人が登場します。この人は、批評に行動心理学を持ち込んできました。科学的に、数字で計ることのできる行動心理学を持ち込んできたということは、どうことかお分かりでしょうか? 文学をモノとして扱うということです。しかも、この傾向は舞台がアメリカに移るにつれ、激しくなっていきます。

 「新批評(ニュー・クリティシズム)」の名付け親、ジョン・クロウ・ランサムは、アメリカの南部出身者でしたが、南部は北部よりも開発が遅れていました。そのため、「北部とは違って、南部には社会の中に芸術性がある」と主張しました。経済では負けているが、芸術なら負けない、というわけです。

 ここにリーヴィスやリチャーズの批評論が混ざり、ニュー・クリティシズムは完成しました。ランサムは、「北部の科学的合理主義に勝てるのは、詩だけである。詩こそは、世界をありのままに受け入れる姿勢を我々に教えてくれるのだ」と主張しました。もうお分かりでしょう。スクルーティニー派は「生(ライフ)」を宗教にしてしまいましたが、新批評は、詩を宗教にしてしまったわけです。

 一番楽な批評の方法とは、批評しやすいものを選んで批評することです。新批評は、厳密な客観的な批評をしやすい、詩ばかりを選んで批評をしました。この方法は、あっという間に全米中に広まりました。それは何故か?

 楽だからですね。大学において、大長編の小説をすみからすみまで読み込んで講義するのは、大変ですし、無理です。しかし、この新批評というものは楽なわけです。決まりきったやりかたで詩を解剖して、批評していけばいいわけですから。

「はい、ここには『緊張(テンション)』<→盛り上がる場所のこと>があります。ここには『矛盾(パラドックス)』があります。ここには『両価性(アンビバレンス)』<→一つの物事に対して、二つの感情を持つこと>があります」

 こういう感じでやれば、簡単ですよね。まるで、数学のように、公式に当てはめていけばいいのですから。しかも、科学的合理主義に勝とうとして始めた筈なのに、やっていることは科学的合理主義のまね事です。

 結局、新批評は、歴史からも社会からも文学を切り離してしまいました。失敗ですね。

 さて、次回はついに「ロシア・フォルマリズム」に入ります。私が最も支持している文学理論です。お楽しみに。

雨(1) 男

 男がいる。彼は何もしていないが、傘をさしている。その傘は雨を防いではいるが、彼は雨を気にしてはいない。傘をさしたという行為は、雨が降ったことによる条件反射に過ぎない。

 彼は誰かを待っている。彼は腕時計をちらりと見る。まだ時間はある。彼は何処かで時間を潰そうかと思う。けれど結局、彼はその場を動かない。それは相手が早く来るかも知れないからであり、また、ここらあたりの地理をよく知らないからでもある。

 相手はなかなか現れない。男はもう一度時計を見る。針は約束の時間を過ぎた。けれど男は待ち続ける。相手が来るまで、男はその場を動けない。

 待っているのは重要な相手なのかも知れないが、そうではないのかも知れない。もう彼には分からない。

 目の前を何人かが通り過ぎるが、それは待っている相手ではない。それでも視線は彼らを追ってしまう。彼らに続いて電車に乗ってしまえば、彼は帰ることができる。内心、彼はそれを欲している。足を動かそうと思えば、足はいつでも動かせる。けれど、彼はそこを動かない。そして、彼はその場を動けない。彼は時間にルーズなわけではないが、彼は義理堅いわけでもない。しかし彼は待たねばならなかった。

 まだ相手は現れない。彼はもう時計を見ない。彼は何もしていない。ただ、傘をさしている。そして、誰かを待っている。

つづく

音楽とマスメディア

 J-POPについて書いてみようかな。誰かさんも書いてたし。

 現在、J-POPというカテゴリーは不遇の時代である。90年代とは違い、ヒップホップやレゲエが音楽として認められ始め、パンクやハードロック(両者ともようわからんけど)もインディーズから出てきた。昔は、インディーズからメジャーへ、という図式があったが、現在はインディーズCDも容易に手に入るし、逆にインディーズ(アンダーグラウンド)がカッコいいという図式が出来上がってしまった。オリコンチャート一位にインディーズのグループが入ることも珍しくはなくなった。

 この現状が意味することとは、出来損ないのアーティストが売れてしまうという事態である。どう考えても、どう贔屓目に見ても、歌手が出したとは思えないような曲が売れている。オレンジレンジなどは、その最たるものであろう。

 一度売れれば、テレビや雑誌というマスメディアが無料で宣伝してくれる。そのため、自称新しいもの好きが飛びつき、カスのような曲が売れてしまう。逆に、前からオーバーグラウンドでやっていた本物たちは、「アンダーグラウンドじゃないから」という、全く理不尽な、理解不可能な理由で置き去りにされる。

 アンダーグラウンドやインディーズとは、誤解を恐れずに言えば、趣味の世界である。マイブームの世界といってもいい。自分たちがやっているものは、まだ誰もいいとは思わないジャンル、音楽である。しかし、やりたい。そういった止むに止まれぬ衝動を持った人々が、アンダーグラウンドでやっていたのだ。

 しかし、いつからかインディーズがステイタスになってしまった。逆にメジャーが、「売れ線」という言葉で片付けられる。この状況は危機的である。

 「売れ線」とは、売ろうとしても売れない歌手のねたみの科白だった。売れるからには理由があり、本物はどうしたって売れてしまうものであり、また、本来歌手とは売ろうとするものである。

 しかし、現在の売れている歌手は、「売れ線」ではないのだろうか。結論からいえば、「売れ線」の形態が変わっているのである。「ラップっぽくて、パンクっぽくて、ちょっと泣かせてくれるっぽい感じ」という、どっちつかずの、意味不明の、うんこちゃん(下痢気味)が売れるのである。

 私は、GLAYは本物だったと思う。だが、彼らもマスメディアに飲み込まれた。マスメディアとは、ニセモノを本物っぽく見せ、本物をニセモノっぽくみせるものである。「売れ線」とは、プロが消費者を楽しませる仕掛けだった筈だ。私はヒップホップリスナーであるが、最近は低レベルな歌詞とパフォーマンスだけというものが増えている。ZEEBRAは最近売れないが、リップスライムなどのマスメディアが作り上げた「本物っぽいニセモノ」が売れているからである。マスメディアと結託したニセモノたち。彼らが消えるには、マスメディアを変えることであるが、それは無理だ。マスメディアを疑い、マスメディアに騙されない消費者になること。それが、本物を見極めることになり、また、新たな本物を生むのである。

死の女神

――僕と死んでくれますか?

 重い告白にも、あなたは軽く頷いた。

 僕はもう一度聞いてみる。 

 ――明日になっても、僕といてくれますか?

 今度は首を横に振る 

 ――それはできないの。

 ――どうして?

 ――二人はここで死ぬからよ。

 その言葉は時を止め、二人は軽く目を閉じた。

 目を開けると、そこにあなたはいなかった。ただ、光だけが僕の目を眩ませた。

フェミニズム殺人事件

筒井康隆『フェミニズム殺人事件』を読了する。筒井康隆は、フェミニズム批評論に関する資料を大江健三郎に薦められて読んでいたらしい。それはある小説の一部に使う予定だったが、一編の小説にしたくなったということである。

 ということは、フェミニズムを皮肉った小説なのであろうな、と想像することは難くない。その考えを頭において、私は小説を読んでいった。

 筒井康隆のミステリーものには『ロートレック荘事件』『恐怖』『富豪刑事』があるが、どれもトリックを重視したものではない。今回の『フェミニズム殺人事件』も、トリックらしいトリックは出てこない。

 ある程度の地位や知的水準がないと泊まることのできないホテルが事件の舞台である。主人公である作家の石坂は、六年前にもこのホテルに泊まった。今回の滞在は、以前とは違うメンバーが何人かいる。それは、フェミニズム論客の女性、そして、この地方の実力者である男。

 まず、さっき述べた地方の実力者が殺される。そして、ホテルの支配人の女性が殺される。最後に、フェミニズム論客の女性が殺される。

 このホテルのある地方では、売春が盛んである。最初に殺された男は、売春の手引きをしていた。次に殺された女性は、売春をしていた。

 小説の冒頭から、支配人の女性のきらびやかな服装の描写が丹念にされる。これは売春の伏線である。また、フェミニズムについての論議も部分部分に挿入されている。

 フェミニズムとは、女性の自由、家庭からの解放を主張するものであり、フェミニズムは売春を否定できない立場にある。フェミニズムの台頭によって、売春は市民権を得た。それが今回の事件の裏にはある。

 どんな思想にも盲点はある。しかしそれは、小説を作る際には非常に効果的な作用をもたらす。フェミニズム隆盛の近年であるが、はっきりいってフェミニズムなど畸形左翼思想である(それは、左翼が自由、平等、博愛というマニフェストを推し進める思想であるのに対し、フェミニズムはその思想を女性のみに運用するという点においていえる)。それを小説の装置にしてしまったこの作品。読んで損はない筈である。