いい小説とは?|盗作日記 -3ページ目

ドロップアウト

教育学部国語科から、一人が辞めてしまった。どうしてだろう? 

 真面目な子で、楽しい子だった。同じ北陸出身ということで、話もよくした。新歓コンパで飲み過ぎてダウンした私に「大丈夫?」といって世話をしてくれたのも、あの子だった。冬休み前にも、全くそんな素振りはなかったのに。

 冬休み明けから、彼女は大学に来なくなった。

 たった二十六人しかいない国語科なのだ。寂しいではないか。辞めるなら辞めるで、一言あってもいいではないか。何も言いたくないという気持ちは分かるけれど、あまりに急過ぎやしないだろうか。

 辞めたということを聞いて、何故かぼんやりして、講義を受ける気もなくなったので、ポッキーを食べながら小説を読んでいた。でも、ポッキーは減っても小説は一向に頭に入ってこなかった。

間違いなく本物

MONTIENというユニットをご存知だろうか? どうやらあまりにも知られていないので、ここに書いておきたい。

 メンバーは、SUIKEN、MACKA-CHIN、そして、Tina。SUIKEN、MACKA-CHINは、NITRO MICROPHON UNDERGROUNDのメンバーであり、日本のヒップホップシーンを支えてきた二人である。そして、Tinaは、恐らく現在日本のR&Bシーンにおいてトップの実力を持つシンガーである。

 現在、二枚のミニアルバムをリリースしたに過ぎない彼らだが、一枚目の一曲目、『虜ロール』を聴いただけでその実力が窺える。二人のラッパーの重低音に、張りのある低音から高音まで自在に歌いこなすTinaの歌声が絡む。

 Tinaの歌声たるや、もう日本人離れしているのである。Christina AguirelaやASHANTIほどの高音は出ないものの、そんなものはTinaにとって必要ないのであり、「高音が出ればいい歌手」などという90年代に日本が陥った勘違いを、歌声によって見事に批評してみせている。

 勿論、高音が出ないわけではない。出るにも拘らず抑えているのだ。それ故に懐の深さが生まれるのであり、要所要所での高音が引き立つのである。 

 早くMONTIENに日本人は気付くべきだ。いつ解散するか分からない期限付きのユニットなのである。リップスライムなどを聴いている暇があったら、Tinaのアルバムを全て聴くべきであるし、TinaがZEEBRAと組む時を想像して、震えているべきだ。

 もう、ニセモノたちは置いて行こうではないか。

「ラップっぽい」、「R&Bテイスト」、「様々な音楽の融合」などという文句は聞き飽きた。要するにそれらはどっちつかずの中途半端なのである。

 来日したアーティストを震え上がらせるような音楽を求めようではないか。

「ニセモノCD不買運動」をしようではないか。

 何も権力を握らなくとも、反抗はできるのである。現在のヒットチャートを見て、恥ずしいとは思わないだろうか。少なくとも私は恥ずかしい。

 ヒップホップやR&Bだけでなく、ロックでもいい、ポップスでもいい、ジャズでもいい、パンクでもいい。本物を求めようではないか。

いい小説とは? 第二回 印象批評(美学理論、規範批評)

第二回 印象批評

 前回は批評が始まるまでを見ていきました。今回は当時主流だった「印象批評」を取り上げますが、ちょっとその前に、印象批評以前にあった「美学理論」というものを見てみましょう。

 当時はまだ、文学を批評するための理論などある筈もなく、絵や詩を論じるためのものであった、カントやヘーゲル、シラーなどの古臭い美学理論を使って、文学を論じようという考えが起こりました。この美学理論の中心になるのが、「象徴(シンボル)」というものです。

 この「象徴」という言葉は大変便利なもので、一見、全てを解決できたように見えてしまいます。

 例えば、殺人をテーマにした小説があったとします。「赤ペン」や「真っ赤な夕日」という言葉を探してきては、「赤という色が、殺しの<象徴>として幾度となく繰り返され、こちらに殺しを暗示する」などと論じるわけです。

 ところが、実際、赤い物を使わないで書いてある小説を探す方が難しいのではないでしょうか? 信号もトマトもパプリカも、はたまた酔っ払いさえも赤いわけですから。勿論、赤を殺しの伏線やメタファーに使う場合はあります。しかし、作者がそう意図していないと明らかな場合においても、「象徴」を使って論じると、何故か理解できた気になってしまうのです。これでは、その小説の本質に迫ることはおろか、迫ろうとさえできなくなります。だってそうでしょう。読む前にこういった評論を読んでしまっては、それ以上分析しようという気にはならないでしょうから(困ったことに、今でもこういった批評をする方がおられるのですが)。

 次に、「印象批評」を見ていきましょう。

 まず、エリオットというノーベル文学賞をとった人物が出てきます。この人は、「とにかく伝統だ」というわけです。「優秀な文学作品は、自然に理想的な秩序を持っているのだ」とか、「もし新しい文学が生まれるとしたら、その秩序の中に納まったものでなければならない」とかいうわけです。権威主義ですね。まあ、この人はひどい人でして、ユダヤ人を否定するわ、さっき言った「理想的な秩序」を作ることができるのはエリート(名門の家系やキリスト教の知識人)だけだと言ったりするわで、結局、エリート以外は文学やるなというわけです。エリオットは詩人でしたから、さっき言った「伝統」というラインを、自分の都合のいい詩に持ってきていた、つまり、詩をベースに考えていました。詩を中心に考えて論じていれば、批評は簡単です。詩の美しさから外れた作品は、クズだと言ってしまえばいいのですから。

 また、「印象批評」の代表としては、他にエンプソンという人もいます。この人は常識(コモンセンス)派の人で、さっき出た「象徴」をやたらと使う人たちよりも、もっと合理的に批評を展開しました。小説のニュアンスを解釈し、作者はどういう意図でこの小説を書いたのか、ということを、手際よく解説したわけです。その解説の土台となるものが、良識や道徳といった庶民的な感覚でしたから、とても分かりやすいものでした。

 しかし、ここで疑問が起こらないでしょうか? 「良識や道徳を使って論じるというが、この人の常識はアテになるのか?」ということです。はっきり言いますと、人の常識など、曖昧なものです。曖昧なものを使って批評をするとどういうことになるかというと、どうしても好みが出てしまうことになります。エンプソンもこのことに気付いたようで、小説なんてものは曖昧で、ある程度はデタラメだと、責任を小説の方になすりつけ始めるわけです。

 現在も印象批評を行っている方は大勢いますが、その多くの人は、こういう考えを持っています。そうでなければ、自分の常識だけを頼りに批評などできません。もっとも、神がかった常識を持っているなら別ですが。

 ちなみに、最近(といっても、1925年生まれですが)では、ベイリーという印象批評の大家がいます。彼の文学の知識はとんでもないもので、「小説を書くにあたっての作者の意図を探ろう」といった批評の仕方は、もう現在では通用しなくなっているのも関わらず、イェーツ(アイルランド最大の詩人、劇作家)やオーデン(イギリスの代表的詩人)をそのやり方で論じて、見事に批評として成り立たせてしまったのです。

 しかし、やはりベイリーも、「小説は無秩序だから面白い」などと言っていることから分かるように、歴史的観点や社会的観点が抜け落ちてしまっています。小説は、特定の歴史的、社会的状況から生まれるものですから、こういう言い方はまずいわけです。

 例えば、現在の東京において、まるで明治時代を生きているような主人公が設定されているとします。読者は、現在の日本の社会状況を踏まえた上で小説を読むわけですから、その落差に戸惑い、また、わくわくしたりします。これは、後に触れる「ロシア・フォルマリズム」に通じる話なのですが、現在の社会的状況と明治という歴史的状況がなければ、こういった戸惑いやわくわく感は生まれないわけです。これで、先ほど言ったことが分かっていただけたでしょうか?

 また、ベイリーはこうも言っています。

「批評は、小説を切り刻んではいけない。まずは、どっぷりと小説世界に身を浸し、味わうべきだ」

 この口ぶり、何処かで聞いたことはないでしょうか? そう、小林秀雄です。小林は、「原文密着主義による内在批評」を主張しました。内在批評とは、「作品の説明と鑑賞でケリがついてしまう批評」のことです(ちなみに、大正14年に青野季吉が「その存在の社会的意義を決定しなければならぬ」と言って、「外在的批評」を提案しました)。

 結論として、こういうことが言える筈です。ベイリーにしても、小林秀雄にしても、文学だけではなく、様々な方向での並大抵ではない豊富な知識があったからこそ印象批評ができた、と。逆に言えば、そういった知識のない人が印象批評をするとバカにしか見えない、ということでもあります。つまり、自分が面白いと感じたかどうかを批評だと思い込んでいる、と宣伝しているようなものですから。さらにいえば、次回以降、順に説明していく、「新批評」「ロシア・フォルマリズム」「現象学」「解釈学」「受容理論」「記号論」「構造主義」「ポスト構造主義」などは、こういうバカが、バカな批評をしないために生まれていったのです。

 ついでにいえば、雑誌に載る書評を大学教授が書く場合、大学で行っている難解な講義の息抜きでしていることが多いと言われています。すると、自然に印象批評になってしまう、あるいは読書感想文になってしまうわけです。

 さて、ずいぶん長くなってしまいました。「印象批評」の親戚にあたる「規範批評」というものを見て、今回は終わりにしましょう。

 「規範批評」というのは、例えばこういうものです。

「主人公は自由を取り得に生きていたはずだが、ストーリーが進むに連れて、その自由さが失われていってしまった点が実に悔やまれる」

 分かりますでしょうか? この批評家は、勝手に理想とするモデルを作り上げ、それから外れたことを非難しているわけです。つまり、この批評家は、自由に生きる主人公が活躍するストーリーこそが最良だと自分勝手に決めつけているわけです。「私の考え方の方が優れている」と、暗に主張しているわけですね。

 いったん書かれたストーリーには確定性が生じます。そこからスタートするのが批評の原則なのですが、こういった批評が多いのは、楽チンだからです。「ここをこうした方がいい」、「ここをこういじれば、もっといい作品になる」などとやっていれば、永遠に批評を続けられますから。

 「印象批評」も「規範批評」も、自分が偉いと思い込まなければできません。そういった意味で、両者は兄弟のようなものです。それも、デキの悪い兄弟です。

 では、今回はこれにて終了。次回は、「新批評(ニュー・クリティシズム)」という、アメリカを中心に広まった批評を取り上げます。「新批評」には今回取り上げたエンプソンも含めるのが一般的ですが、エンプソンは「印象批評」だとしか考えられないので、「印象批評」に入れました。

 最後に、質問、疑問、反論、感想、何でも受け付けます。遠慮なくどうぞ。

いい小説とは? 第一回 文芸批評の始まり

好きな小説や、感動した小説。私にも、そういう小説はあります。しかし、私が好きな小説だからといって、他人もそう感じるとは限らないわけです。失敗作を生まない作家などいない。では、失敗作とは何なのか? それを失敗作だと言い切ることができる文芸批評家とは何者なのか? そもそも小説を批評することなど可能なのか? 

 毎週土曜日は、こういった疑問を晴らしていこうと思います。では、今日が一回目。まずは文芸批評の始まりから見ていくことにしましょう。


第一回 文芸批評の始まり  

 そもそも、文芸批評というものはありませんでした。勿論、私が生まれる前に私は存在しません。しかし、それとは違う意味で、文芸批評は存在しませんでした。それは何故か? 再び私を例に出してみると、私が生まれたのは親がいるからです。文芸批評にとっての親とは、そう、小説です。昔は小説がありませんでした(もちろん、全く存在しなかったわけではありません。しかし、「お金がない」と言った場合、本当にその人は一円も持っていないのでしょうか?)。詩や戯曲ばかりでした。だから、文芸批評も、文芸批評という言葉も、この世には存在しませんでした。

 時は流れ、十七世紀中頃から、小説が存在し始めました。ここでいう小説とは、批評しようという気にさせる小説、あるいは批評を必要とする小説のことです。作家を一人あげるならば、デフォーがいます。『ロビンソン・クルーソー』の作者だといえば分かるでしょう。

 しかしこの当時、文学は女子供のものでした。ゴスマンが王立諮問委員会への答申として書いた『文学と教育』にも、大学で文学など教える必要はないと書かれています。大の大人(特に男)が恋や風景の美しさを語るようなことは、恥とされていたのでした。

 さて、十八世紀にはフランス革命が起こります。「自由、平等、博愛」。その思想を達成しようとして、共産主義と資本主義が生まれます。資本主義はまあ、おいておきましょう。当時は共産主義の嵐が吹き荒れていました。まだヨーロッパでは絶対王政が主です。勿論、先にあげたデフォーの生まれ故郷、イギリスも例外ではありません。しかし、共産主義の脅威がイギリスにおそいかかります。貴族階級の人々は、共産主義をことのほか恐れました。

 貴族階級が共産主義を恐れていたのは何故か? それは、労働階級が共産主義に染まると、貴族階級は損をするからです。安い賃金で働かせることができなくなるばかりか、労働組合を作って抵抗までされてしまう。さて、それを防ぐにはどうしたらいいのでしょうか?

 ここでアーノルドという人物が動きます。彼は、中産階級(労働階級の一つ上に位置している人々のこと。イギリスでは、まだこの階級制度の名残が、伝統として残っている)の人々に貴族的教養をつけるべきだといい始めました。その教養とは、英文学でした。こんなことをしてどうするかといえば、中産階級の人々に、労働階級の人々が共産主義に走らないよう、指導させようとしたのでした。

 動機はどうあれ、これ以降、文学は恥ではなくなっていきます。

 今回は文芸批評が始まる前の段階を説明しましたが、次回は、この当時の文芸批評で主流だった「印象批評」を取り上げます。

 最後に、今回の説明で疑問や質問、反論がある方は、遠慮なくどうぞ。歓迎します。